近代的まちづくりとしての横浜の公園の始まり

横浜の都市としての歩みは、1859年(安政6年)の開港から始まりました。そして貿易が盛んになり開港場が賑わうと、土地不足による居住環境の悪化に対して、外国人側から改善要求が高まりました。慶応2年には大火が発生。関内の3分の2に近い地域が焼失。この大火がを契機として、同年に幕府側と外国側とで、横浜居留地改造及び競馬場、墓地等契約書(第3回地所規則)が締結され、現在の関内のまちの原型とも言える整備計画が取り決められました。

規則では、山手に外国人用の公園を造園すること、開港場の遊郭を映し跡地を外国人と日本人双方が用いる公園とすることが定められました。これは日本の都市公園制度始まり規則の7年前です。他に、外国人居留地と日本人居留地の間に延焼を防ぐための幅員120フィートの大通りを通すこと、競馬場の整備が決められたとの事です。

規則の明治政府に引き継がれ、山手公園、横浜公園、日本大通り、根岸競馬場といった横浜中心部の骨格をなす公園やオープンスペースとなりました。これらの西洋式施設はいずれも日本に導入された初期の事例で、日本の近代化に大きな影響を与えています。現在、山手公園・横浜公園・根岸森林公園の3公園は「居留地を源として各地に普及した近代娯楽産業発展の歩みを物語る」として近代化産業遺産に認定されています。

山手公園は、日本初の横浜居留外国人によって造られた日本初の西洋式公園です。当時は、外国人専用で「ブラフガーデン」と呼んでいたとの事。また、山手公園は日本の近代テニス発祥の地で、そしてヒマラヤスギが日本で最初に植えられた公園だそうです。

現在、横浜スタジアムのある横浜公園は、元々遊郭があった場所に造られた西洋式公園で外国人R.Hブラントンの設計によるものです。山手公園とは異なり日本人も利用できたことから彼我公園(彼は外国人、我は日本人)と呼ばれました。当時の中央の外国人専用の運動場では、クリケットやラグビー、野球の日本最初の国際試合も行われました。関東大震災後復興整備で本格的野球場が造られ(横浜公園球場)では、ベーブルースやルー・ゲーリックといった伝説の選手もプレーをしています。その後、進駐軍の接収を経て、返還後、横浜平和球場と改称され、老朽化を機に現在の横浜スタジアムとしての出発となりました。

山下公園は、関東大震災の瓦礫を埋め立てた上に造られた、日本初の臨界公園です。また、地元神奈川区の神奈川公園は、「中央公園」として位置づけられた野毛山公園に対して、方面別の市街地における中核公園となる「市街公園」で、現在の近隣公園のモデルです。

その神奈川公園は、近隣の高鳥山からの土で公有水面を埋め立て、さらに買収した私有地を加えて昭和2年に着工し、昭和5年に開園。公園の中央に噴水池や約750坪の子どもの遊び場の他、神奈川会館という食堂、集会所を備えた鉄筋3階建の公会堂が建設されました。進駐軍の接収や老朽化による会館の取り壊しを経て現在に至っています。

横浜の公園は、近代的な街づくりの中で、市民の思い出とともに建設がされてきました。(参:公園とみどりの横浜の150年)

 

 

 

 

 

 

 

 

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